翌安政元年(1954年)、ペリーが再び日本を訪れたとき、松陰は門人の金子重輔とニ人米艦にたどりつきましたが、送り返され獄に下ります。
その後、彼は長州藩「預り」となり、故郷で松下村塾を開きます。
そして門下より久坂玄瑞・高杉晋作・木戸孝允などを輩出しています。
ところが安政の大獄が始まるや江戸に呼び戻され、尊王擁夷を画策した疑いで入獄を命ぜられ、安政6年10月、刑場の露と消え、弱冠30歳の人生を終えました。
吉田松陰における「忠誠」(ロイヤリティー)とは何でしょうか。
一言でいえば、自己の所信に対して忠実であったということではないでしょうか。
だからこそ彼の志を継いだものたちは明治維新という革命を成し遂げることができたのでしょう。
・・・以上、忠誠(ロイヤリティー)の本質を探ってみましたが、結論的にはその人が何に価値をおくのかという生き方の問題であるといってよいでしょう。